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図166 油津の地形図

 

貿易や通商には西町下あたりで岩礁は多いが停泊に便利な西側を使っていたと伝えられる。堀川建設以前から比較的大きな船舶が停泊しやすく、かなり入り込んでいたことも考えられる。それがまた、堀川運河建設の好条件を生んだのかもしれない。堀川西側は西町と呼ばれ、古くから船大工、社寺(林光寺等)跡が伝えられ、航海に必須の水が出た所だと言う。
堀川東岸は江戸期から昭和期を通してもっとも活気のある町であった。現在でも油津地区での中心をになっているが昔日ほどではない。したがって、この地区が最も歴史的建造物群の集積が高い。それは近代建築(煉瓦造)を中心に明治・大正・昭和初期の建物を多く抱え、歴史的街区として保存活用を求める市民活動の中心地区と目された。ここは油津3丁目から東側の街路構成と異なり、計画性の高い矩形街区を形成する。上町・中町・下町からなりそれぞれ上町通り、中町通り、下町通りを中心に形成された。この地区は南側(現在の油津港)に向けて形成されておらず、むしろ堀川(西側)に向かっているようにうかがえる。堀川こそが港であり、商業の中心であったことを示している。各通りの延長上で堀川に面する位置にはそれぞれ石組みの段がしつらえてあり、荷揚げの利便と通りに直結した仕組みが見て取れる。しかし、この地区がいつ新たに町割されたのか伝える明確な資料はない。
現在の油津港前と国道220号にはさまれた街区は港湾流通施設が立地する。また一部には洋館が残存する。

 

4.1.3 油津の集落構成
その画期はいづれも港に関係し、それは、堀川建設期と近代油津港建設期であると考えてまちがいない。

 

?)堀川建設以前(図167)
天然の良港油津港は宋明貿易の中継港として中世期を通して栄えたという。しかし、港としては現在の西町に近いあたりが中心であったようだ。中央部はおそらく浜港だったのであろう。東側尾伏鼻の根本あたりには停泊できたようだが実際どうだったかわからない。
この時代の油津は中央部から東が漁村集落の様相を呈し、まだ陸続きだった西町付近に主な施設が立地していたものと考えられる。従って、中心部は現在の東側街路と変わりのない街路が続き林光寺跡を中心とした活動が主であったろう。当然、堀川橋あたりで山稜は連なって

 

 

 

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